寮生リレー通信 (第 109 回)
夢への一歩が踏み出せる、大きな喜び
みぎわ館3年 F.E(新潟県長岡市)
私達44回生が敬和で過ごすのもあとわずか。それと同時に、それぞれが目指した道へ進むときが、日々近づいて来ています。今、寂しさや不安、期待など色々な感情が混ざり合っています。新しい場所で、敬和で過ごして得た力を活かし、力強く歩み続けていきたいと思っています。
私はこの春から大学へ進学し、書道を学びます。小学校3年生の時から続けてきた書道ですが、これまで書道一筋できたわけではありませんでした。離れていた時期もありました。しかし、その離れていた時期が、今の夢を与えてくれました。そして、私自身が書道から力をもらっていた事に気付くことも出来ました。何もかも進歩していないように思っていた時間こそが、私に大切な事を教えてくれました。
そして私は文学部・書道学科を受験することに決めました。受験方法は公募制推薦。受験内容は実技、小論文、面接でした。受験日はあっという間にやって来て、あっという間に終わりました。小論文が特に悔いが残りましたが、その時の自分が出来ることはやったつもりでした。しかし結果は不合格。こうなることを覚悟していたつもりでしたが、抑えきれない悔しさが涙となって溢れだしました。
ラッキーな事に、その後再び受験することが出来ました。しかし私はそのチャンスを与えてくれた親に「ありがとう」の言葉さえ忘れ、ただただ焦るばかりでした。そんな時、ある先生に「焦るのも分かる。でもあなたが決めた道でしょう。」と言われ、徐々に自分と向き合う事ができるようになりました。この言葉は「自分に勝て!」と言われているようでした。相手との戦いではなく、自分との闘い。弱気になった時、こう自分に言い聞かせ、確実に準備を進めていきました。前回悔いが残ったことを集中的に取り組みました。
そうして早くも2度目の受験を迎えました。緊張で手が震えました。深呼吸しながら実技である書道を一文字・一文字大切に書き進めました。そして小論文に取り掛かり、午前は終了。午後からは面接。受験が終わっても、結果を考えただけで恐ろしくて眠れませんでした。
いよいよ発表日。インターネットで自分の番号を入力し、溢れだす緊張をなんとかこらえ、結果をクリックしました。「合格です」この表示を見た瞬間、家族みんなで大喜びしました。やっと夢への一歩が踏み出せる。本当に大きな喜びでした。
受験の事で家族や先生方、友人たちに私はたくさんの迷惑を掛けてしまいました。それでも応援してくれ、力になってくれて、自分の未熟さを痛感させられたとともに、感謝の気持でいっぱいです。
これからが大変な事は分かっています。人一倍の努力が私には必要です。そして、書道に関してまだ点在する知識を立体的な物にしていきたいです。そして将来、自分の言葉で「書」を伝えていくことが出来たら、このうえなく幸せです。
<4人の仲間が受洗しました>
昨年のクリスマスに寮生4名がそれぞれの教会で受洗しました。今月号に彼らの信仰告白を掲載いたします。大望館2年 S.K(兵庫県津門大筒町)
(12月15日 日本基督教団新潟教会にて受洗)
私が初めてキリスト教と出会ったのが中学生の時でした。その頃進路は何にも決まっていませんでした。そんな中で母親から敬和学園を進められ「敬和の会」というのに参加しました。その会は、学校の説明だけでなく礼拝を行っていたので教会へ行ったことがなかった私にとって新鮮なものでした。この敬和との出会いがキリスト教との出会いでした。また、その会の説明で言っていた「敬和学園は自分探しの学校」という言葉に惹かれさらに母親や兄が敬和生だったこともありこの学校に入ろうと思いました。
進路を決定しないといけない時期になり、「自分を変えたい」という気持ちが強かったので気持ちは変わらず、敬和学園に入ることを決めました。
敬和に入学した頃は、寮のルールや人間関係などで自分のことだけで精いっぱいでした。私は要領よく動けないので、いろんな失敗もしました。そういう風に忙しく寮生活をしている中でつらいことがありました。それは、寮の仲間が寮を去っていくという現実でした。最初はどうにかできないかと思い、悩みをかかえた寮の仲間の話を聞きました。しかし、結局何も出来ずに仲間が去るばかりでした。この時から何も出来ない自分に対して劣等感をもつようになりました。そんな時、礼拝を通して心を静かにして自分と神さまに向き合う中で、また神さまにお祈りをすることで、自分の気持ちを落ち着けることができました。
敬和学園には毎週金曜日の早朝に行われる早天祈祷会というものがあります。私はそれに毎週参加していて、学校での聖書の授業や教会以外の場所で聖書と触れ合っています。そうしたなかで自分の好きな聖書の箇所ができました。それはコリントの信徒への手紙Ⅱ12章 9~10節です。その中でも特に「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」という箇所を見た時とても励まされたような気持ちになりました。それに、弱さも自分の一部だと思えるようになりました。そう考えると、寮をやめる人を食い止められなかったという現実も受け入れることができるようになりました。そうして、自分への劣等感も最初の頃に比べ少なくなってきました。
聖書を通して自分を見つめる中で、弱い私は他の人たちの支えとなるようなことができているのか、またどうしたらそれができるのか考えるようになりました。学校や寮などでは世代交代をして2年生が中心となってきています。その中で「お互いに支え合う」ことが大切になります。そしてどのように相手を支えるのかということは聖書に書いていると思います。私は聖書の言葉に向き合う中でそれを見つけたい、またこれからの人生での自分の支えになるものが必要だと思い、洗礼を受けることを決めました。このことを家族にも話し、承諾をえることができました。このように思えるのは敬和との出会い、そこでいろいろな経験をしたからこそだと思います。
最後にこの洗礼を通して今までの自分を振り返ることができました。そして、自分の弱さを知ることができました。これからも様々な困難に出会うと思います。そうしたなかでも自分の弱さを大切にし、弱い時にこそ強くありたいです。また、自分のことばかりを考えるのではなく、相手のことも考え、そして相手の弱さを受け入れ、隣人を自分のように愛せるようになりたいと思います。
光風館2年 I.H(東京都渋谷区)
(12月22日 日本基督教団原宿教会にて受洗)
私が今回、洗礼を受けようと思った理由は、しっかり自分と向き合い、自分の中に何があっても揺るがない支えを得たいと思ったからです。私は父が牧師ということもあり、物心がつく前から教会に通い、教会幼稚園にも通っていました。私は小さい時からキリスト教との関わりを多く持ちながら育ちましたが、洗礼を意識したことはありませんでした。
私に自分と向き合うきっかけをくれたのは、新潟の敬和学園でした。しかし、敬和学園への入学を決めたのは、私の本当の意志ではありませんでした。高校の第一志望として受験した公立の高校にはわずかに及ばず落ちてしまい、地元の東京ではなく、新潟の敬和学園へ入学することになりました。その頃の私は意気消沈していたのと同時に新潟での生活、親元を離れることに強い不安を抱いていました。今思えば高校生で親元を離れるという経験をできたのは、自分にとって大きなプラスになったと強く思います。敬和学園での学校生活と寮生活を始めたことによって、私は今までどれだけ両親に頼り、導かれてきたのかということに気付きました。同時に私は自分の弱さにも気付かされる経験もしました。
寮生活は共同生活なので、誰かと常に隣り合わせの毎日です。色々な個性の持ち主と向き合い、寮で起こる様々な課題に向き合わなければなりません。寮生活を通して自分と向き合い、隣人と向き合い、神さまと向き合うことの大切さを毎日の生活の中で学んでいます。
敬和学園で得た、目の前の物事や周りにいる誰かに向き合うことの大切さ、それは私が17年間生きてきて最も苦手とし、できる限り避けてきたものでした。原因は、何かに向き合わなければならない時に「面倒」、「まだその時ではない」と理由を付けて逃げてきたからです。私は大小様々な問題が起こる度に壁にぶつかり、自分と向き合うこと、考えることを放棄してきました。しかし、毎日の生活の中で起こる課題や友人関係など自分に関することを後回しにする自分に危機感を覚えるようになりました。その中で、私は私の中に揺るがない支えを求めるようになりました。小さい頃から私にとって身近な存在だったキリスト教に触れていく中で、自分の中に揺るがない支えをつくっていきたい、そう考え洗礼を受けることを決断しました。
敬和学園のくれたきっかけと共に、今回の洗礼を受けるという大きな決断を経て、私はあらためて自分自身としっかり向き合う中で、私は私の中の大きな変化に気付きました。それは、私は完璧な存在ではないけれど、むしろ弱さがあっても良いのだと思えるようになったことです。そう思えるようになったのも、キリスト教を土台に置く敬和学園の生活、寮生活の中にいるからだと思います。人にはそれぞれ弱さがあります。その弱さがあるからこそ、私たちは隣人と互いに支え合うのです。だからこそ弱い部分も大切なのです。これからもキリスト者として、そのように大切なことに気付かされながら、自分の中に支えとなるものをしっかりとつくる歩みを進めたいと思います。
大望館3年 W.T(宮城県岩沼市)
(12月29日 船岡聖書バプテスト教会にて受洗)
僕が 教会に行き始めたのはほとんど覚えていません。気付いたら行っていました。教会に行くのがあまり好きではなく、なんで毎週日曜日に行かないといけないのか、苛立ちさえ覚えていました。行けば楽しかったのですが、とてもめんどくさいことでした。小学3年生になり、キャンプに参加できるようになりました。そこでは、教会で学べない一味違うことを学びました。神様についてわかりやすく話してくれましたが、小学生の時はバプテスマを受けるなんて考えていませんでした。中学生になり、小学生の時よりさらに聖書に関心をもてるようになり、聖書の神を信じるようになっていました。しかし、バプテスマを受けることに抵抗があり、恐れがありました。自分は罪深く汚い恥ずかしい存在だと思っていたからです。中高生キャンプに参加しているうちに、色んな方のフォローもあり、バプテスマを受けることへ抵抗が全くなくなりました。そして今年の夏にみんなの前でその決心を伝えました。そして、僕は神様に従って生きていこうと決めました。聖書の言葉1つ1つを大切に生きていきたいです。
めぐみ館3年 W.M(新潟県新発田市)
(12月22日 日本基督教団新発田教会にて受洗)
私は小さい頃から新発田教会に通っていました。礼拝・お祈り・神様という言葉を知っていても深い意味は知らず、興味があるわけもなく、日曜日の午前中といえば教会に行って礼拝を受けるというのが当たり前でした。この当たり前になっていた週1度の礼拝は特別で、教会に行くということは私の中でとても大切なことでした。教会に行くと、教会にいる方々が温かく迎えて下さり、教会に行くのがとても好きでした。
中学校にあがり、友人関係の悩みが出始めた頃、教会に行ってとても集中して礼拝を受け、神様に必死にお祈りをしたこともありました。そのとき私は神様をすごく近くに感じた気がしました。中学3年生の時、「敬和学園高校」と出会いました。私はそこに入学することを決め、寮にも入れる事になりました。そこで、私自身はとても大きく変わりました。
敬和では毎朝全校で礼拝を受け、夜は寮で礼拝を行います。日曜日には友達と一緒に新潟教会に行きます。寮では様々な地域の仲間と出会いました。毎日一緒に生活を送る中で、目を見て話し合い、お互いを受け入れ、心から笑いあい、時にはぶつかりました。寮生活は決して楽なものではありません。ですが、少し不便そうに見える寮生活だからこそ得られたものは大きく、寮で3年間過ごした仲間はかけがえのない大切な家族です。
高校3年生の半分が過ぎた頃、私は寮の仲間の1人と今まで生きてきた中で一番大きな喧嘩をしました。私は、その友人と喧嘩をしてしまったこと、そして友人の言った言葉にとても大きなショックを受け涙が止まりませんでした。そんな時、部活の顧問の先生であり、クリスチャンの私自身とても尊敬している先生に私は救われました。その先生は、涙がとまらず自分の視点からしか物事を考えられなかった私に、相手の立場に立って考えること、そしてイエス様が十字架につけられ復活されるお話をしてくださいました。私はこのお話のおかげで、また立ち直る事ができ、少しずつその友だちとの仲も戻り、最近やっとお互いに謝る事も出来ました。私は敬和に入ってから、悩みの無かったことは一度もありません。
辛かった、苦しかったことはたくさんありました。ですが、嬉しいことや楽しいことの思い出の方がいっぱいです。敬和に入り、今まで自分でも気付くことの出来なかった自分の良いところを少しずつ見つけることができ、聖書の中の言葉に何度も救われました。そして、様々な視点で物事を考えられるようになりました。
イエス様が私たちの罪のために十字架にかかり、私たちを赦してくださったように、私も赦すこと、そして許されながら毎日を送っていることを忘れず生きていきたいです。
< ひとこと >
2014年のぞみ寮は、天候不順などで交通機関が遅れるなどの影響もなく、静かなスタートでした。1年生も2回目の長期休みでしたが、友人との再会にはしゃぐ事も無く、少し落ち着いたように感じました。3年生は2月から自宅学習期間に入るので、寮を離れる準備が始まります。3年間寮生活を乗り越えた達成感は、段ボール箱には収まらないくらい沢山の思いが詰まっていることでしょう。
各館で3年生が礼拝で自身の歩みを振り返ったメッセージを話してくれ、後輩たちはその姿勢や思いを受け継いでいくことでしょう。2月からは1,2年生だけの寮生活が始まります。1年生は先輩になる準備、2年生は最上級学年へと、進級に向けての歩みが待っています。
保護者の方々には、お子様の大切な3年間をのぞみ寮に託して下さり、信頼し、支え続けてくださっている事、本当に感謝申し上げます。
2014年も、みんなが元気で大きく成長していくことを祈りながら、寮務教師一丸となって寮教育に取り組んでいきたいと思います。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
寮務教師:澤野 恩