「神の業がこの人に現れるため」
寮長 東 晴也
1.本当の修了証
48回生の皆さん、保護者の皆様、本日はおめでとうございます。先ほど寮修了証をお渡ししました。でも、あれはただの紙切れです。本当の修了証は、ここ太夫浜の厳しい海風の吹き付ける中、どんな時も、共に学び共に生活してきた君たち自身こそ、本当の修了証です。
2.出会いとは
のぞみ寮「教育のねらい」は「出会い」です。ここでの学びと生活を通して「他者と、自分と、神と出会う」というものです。そもそも「出会い」とは何か?出会いとはそれまで別に何とも思わなかったことが、それからはかけがえのないものとなることです。それによって自分が変わってくるということです。その出会いが真実であればあるほど、それは人を根本的に新しくします。そのような出会いを48回生の皆さんは経験してきたでしょうか。
3.「生まれつき目の見えない人」
聖書の中には「神様やイエス様と出会った人」が何人も書かれています。ヨハネによる福音書9章は、まさしくそのところです。「生まれつき目の見えない人」がイエスと出会ったことで、人生が180度変わります。今流行りの吉野源三郎風に言えば「人生がコペルニクス的転換」を遂げる瞬間が描かれています。自分の弱さが、「神の業がこの人に現れるため」に用いられたのです。
毎朝チャペルでの礼拝開始の音楽は「AmazingGrace」です。「目の見えなかった私が、今は見える」これはアメージングレースの歌詞と同じです。作者のジョン・ニュートンは、アフリカから大勢の黒人奴隷をアメリカなどに運ぶ奴隷船の船長でした。黒人をただの商品としてしか扱わない鬼のような人物。ところが、ある体験を通して人生が変えられる。神様との出会いは、どんな悪人をも変えることができるのです。
4.生きる
私の君たちへの願いを一言で言うと「生きろ!」です。とにかく生きてほしい。太宰治を好きな人、いるでしょう。彼は玉川上水で自殺した。彼の最後の作品『桜桃』の冒頭には、詩編の御言葉が引用されている。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」と、ここで終わっている。聖書の続きは、「わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」とありますが、彼にはおそらく、「主のもとから助けが来るんだ」という希望・信仰は持てなかった。助けは、見えないだけ。見えないけど、実際にはあるということがこの世の中にはたくさんあります。太陽はいつも雲の上に輝いているでしょう。全知全能の神がいるなら私たちは許されて生かされていて、一人ひとりの存在には必ず意味がある。その意味は今は分からないかもしれない。しかし「時が来れば実現するわたしの言葉を信じ」(ルカ1章20節)る時、一人ひとりに歓喜の瞬間が必ず訪れる。それは、この私にしか為し得ない「神の業」の瞬間です。
自分を大切にし、隣人を愛し、素晴らしい人生を!どうぞお元気で。ありがとう。(寮修了礼拝より)
< 寮生リレー >
「新しい発見」 F.J(めぐみ館2年 三条市)
嫌いな人、苦手な人、怖いと思う人はいますか?私は、敬和に来て初めて苦手な人が出来ました。同室になった人のことを、関わりもせず、「怖そう」とか「共通点がなさそう」とか勝手に決めつけてその人を「苦手な人」にしていました。
もちろんその人とは、あまり話したことがなく、知ろうと努力もしていませんでした。同室になり、ドキドキ、ワクワクしつつも少し憂鬱でした。その人に対して変な先入観を持ち、悪いところばかりが見えていました。しかし、同室で共に生活をしていく中で気づいてきました。好きな物や、考え方など、今まで知らなかった新たな面が見えてきたのです。見えてきたことで、その人の良いところにも気づいていくようにもなってきました。
相手に対して勝手なイメージだけで、その人を見て、関わっても何も新しい発見はできないと思います。自分勝手なイメージを一度忘れて、初対面のように話してみることの大切さを知ってほしいと思います。たくさん話しをしたり、行動を共にしてみてほしいです。
関わることでしか、その人の良いところ、苦手なところ、意外な発見はできないと思います。
あと少しで私も3年生になり、新しく1年生も入寮してきます。新1年生も安心して充実した日々が送れるよう、3年生としての自覚を持ちながら、憧れてもらえるような先輩に近づけるよう努力していこうと思います。新しい出会いを通して、関わりを積み重ねながら、「新しい発見」をたくさんしていきたいです。
「仲間の存在を感じた一年間」 S.K(みぎわ館1年 神奈川県)
先日の1年生ミーティングで、51回生を迎えるにあたってどんな先輩になりたいか、という話になりました。その時の私は、今の自分のことで精一杯で、なりたい先輩像など考えられませんでした。だから私は、「これからもみんなの足を引っ張ることもあるかもしれないけど、私が足を引っ張ってしまったら、私の手をみんなが引っ張って欲しい」と伝えました。
一年間を振り返ると「辛かった」という言葉がふさわしいような気がします。地元が好きで、離れたくありませんでした。「寮に帰って来たくない」などということもありました。でもみんなは、「帰って来てね、待ってるよ」と言って、優しく私の手を引っ張ってくれました。寮に来て、私はこの一年たくさん悩みました。たくさん泣いて、笑い、少しは成長できたと思っています。
今、私には達成したい目標があります。残りの寮生活2年間、足を引っ張り合うのではなく手を引っ張り合える、そんな自分になりたいということです。みぎわ館50回生と一緒に、そんな先輩に成長していけたらと思っています。
「求めなさい、そうすれば与えられる」 A.K(大望館1年 大阪府)
私が寮に入って感じた事があります。それは、大望館が私にとってのカナンの地なのではないかという事です。そう思うのには、いくつかの理由があります。洗濯物を家族の分までやらなくてよくなった事、ご飯のお手伝いや片付け、風呂洗いの回数が激減した事が挙げられます。実家では、家族の分の洗濯物の量があったが、寮では1人分だけ。週に2日あった風呂洗いの当番も、寮生活では月に2回だけです。要するに実家での生活より楽なのです。寮がカナンなら、実家はエジプトです。
他にも良いと思う所があります。それは、校舎までの距離が徒歩1分もかからないという点です。小学校の頃に思い描いた「学校の横に家があれば」という夢が高校で実現しました。都合の良い解釈かもしれませんが「求めなさい。そうすれば与えられる」という聖書の箇所が、頭に浮かんだのです。寮生活と学校生活は、全く異なると思います。同じ敷地内にこそありますが、学校生活では受動的に知識を得て、それを真似することが求められます。しかし寮生活では、自分たちが新しい事を発見する事、創造する事、そして行動する事が求められていると思います。受動的に慣れてしまった人ほど、寮で苦労する。寮祭や寮クリスマス、その他多くの行事は、そんな人を成長させ、変化させるためにあるのではないかと思いました。機会はある、それをものにするかは、本当に自分次第です。
寮の中には、本当に色々な感性、価値観を持った他者のことを考えなければならない必要性を学びました。あのマザーテレサが「愛の反対は無関心」だと言っていたのは有名な話です。裏を返せば関心を持つ事が愛なのではないかと思います。そしてそれは、敬和でいう隣人愛に繋がるのだろうなと私は思いました。
これらの事が、私が寮での1年間で振り返って思った事や感じた事です。最後に私の胸中を皆さまにお伝えしたいと思う。「1年、経つの早!」
「出会いに意味がある」 O.S(光風館2年 千葉県)
私は、のぞみ寮に入って成長したと思います。その理由は二つあります。
一つ目の理由は、両親や周りの人に感謝をするようになったということです。今までの自分は、親に何やってもらっても当たり前。親がいて当たり前。そんな毎日でした。しかし、今、親元を離れて生活をしていて思ったことは、両親の存在の有り難さです。時に、私は親を裏切ったこともあり、悲しい想いをさせたこともありました。しかし、こんな私を見捨てないで、優しく見守ってくれました。どんな時でも、自分のことを一番に考えてくれる両親に感謝しています。私を高校へ入れてくれたこと。寮に入れてくれたこと。そこで、私は変わることが出来たと思います。本当にありがとうございました。
実は、私は昨年4月に2年生として転校してきました。最初は、何事にも不安な毎日でした。しかし、周りの仲間は優しくいろいろと教えてくれたり、面倒を見てくれたりしました。そのおかげで私は今、楽しい毎日を過ごすことが出来ています。私のことを何も分からないのに、私を受け入れてくれた仲間に心から感謝しています。
二つ目の理由は、人間関係で学んだり、考えさせられたりするということです。私はのぞみ寮に入り、「なぜ、自分がつらい想いをしなければならないのだろう」と思う時もあります。しかし、そこには意味があるということ。人と人との出会いに意味があること。意味が無い出会いはないということを学びました。
これから先もいろいろなことがあると思います。そんな時は、自分ひとりで抱え込まず、周りの人に相談し、お互い助け合って、自分に負けずにこれからも頑張っていきたいです。
「本音でぶつかり合える仲間」 K.Y(めぐみ館1年 新潟市)
早いもので入寮して一年が経とうとしています。のぞみ寮で過ごした一年は慌ただしく、とても濃い時間でした。はじめは何から何までも初めてのことばかりで、不安と期待とでとてもドキドキ過ごしていたことを覚えています。
教会で知り合いの敬和生から楽しい寮生活の話をたくさん聞いていました。そのために入寮する前から、調子のいい、うますぎる楽しい寮生活を妄想していました。
ですが、入寮すると、想像とは異なりたくさん悩むことがありました。また想像よりもうれしいことや楽しいことがたくさんたくさんありました。個性的な仲間に出会いました。生まれた土地も、価値観も全く違っていました。こんなにも考え方が違うのかとびっくりすることもあり、それによって私の中に新しい世界が広がりました。ぶつかることも避けられません。この一年だけで何度も仲間とぶつかりました。ぶつかり合う仲間を側で見ることもありました。中学までの私ならそこから背を向け、全く関わらなくなってしまうのですが、寮ではそうはいきませんでした。コミュニケーションの大切さ、真剣に相手と向き合う大切さを知りました。
寮の仲間と何度もぶつかり合いながら、乗り越えたことで深まる絆、仲間の大切さを卒業した先輩たちが教えてくれました。
生活を共にする上で、ぶつかることもこれからたくさんあると思いますが、その度に仲間と話し合い、違いを認め合って、さらに絆を深めていけたらいいなと思います。
そして春、新しい出会いがあります。こんな私ですが後輩が出来るのです。うれしい反面、きちんと関わっていけるか不安なところもあります。しかし、先輩たちがしてくださったことを思い出し、新1年生と誠実に関わっていきたいです。
「残ったもの」 H.S(みぎわ館2年 東京都)
振り返ると、愛と挫折に出会ったマラソン大会のような一年でした。走り出しは初心者の私が走ってもいいのかという戸惑いがありながらも、土を蹴り、風を感じ、景色を楽しみながら息を吸い込む気持ちよさから足取りは順調でした。しかし、長くは続きませんでした。私は同じゴールを目指しているライバルを意識するあまり、スピードを落とすことも許せず、給水も我慢していました。体が耐えられるわけもなく、毎日脱水症状や頭痛、筋肉痛と戦いながら、優勝しなければという気合いだけで走り続けていた時、突然、身内が倒れたと耳にしました。身内に対する後悔と自分を責める気持ち、そして、足を止めてしまった事へのショックが重なり、足が動かなくなりました。傷が深かった私は、すぐに走り出せず、走れない自分に失望し、自信も消え失せ、かといって棄権する自分も許せずと、半年間もの長い間、葛藤しながら納得できるまで試行錯誤しました。
結果、私はマラソン大会を棄権しました。私は周囲の目や評価ばかりを気にして強い劣等感を抱いていました。自信がないからこそ何か役職に就き、タスクをこなす自分に納得・満足することで自分の存在意義を見いだそうとしていたのです。地位や名声に固執しなくなった理由は3つの愛に出会ったからです。
1つ目は、海外教室でファミリーをはじめとする人々から無償の愛を注いでもらえたこと。2つ目は、自信を持てずにいた原因であった両親から弱さを受け入れてもらい、存在を認めてもらえたこと。3つ目は、地位や名声は形に残る物ではないけれど、みぎわ館のみんなは目に見える形として残って待っていてくれたこと。応援してくれたり、手を差しのべてくれたり、水をくれる人がいるならば、それほど幸福なことはないと同時に、ありのままの自分でいいのだと思わせてくれました。
過去から形成され、自分で作り出した皮から脱皮した私は、やっと寮生になれた気がします。
「本音」 Y.M(大望館2年 埼玉県)
私は、この一年プレッシャーと戦っていました。私たち49回生は、最初のほうはたくさんミーティングをしていました。自分たちの良いとこ、悪いとこを言い合って、どうすればよくなるのかなど自分が思っていることを言い合っていたと思います。ですが、時間が経つにつれて寮生活に慣れてくると、ミーティングを面倒くさがる人が出てきました。大事な話や連絡があるのに態度がよくなかったり、みんなで話し合って決めなきゃいけないのに、「早く終わろう」という人がいたり、なんだかよくない方向にみんなの意識がいっていたと思います。仲が悪いわけではないのですが、何か違うと感じていました。その思いをみんなに言えずに、2年生になりました。
2年生になってもミーティングの空気は悪いまま。私は、言わなければいけないと思いつつも、言わずに時間が解決してくれると、目の前のことから逃げていました。私自身も変わっていたことに気が付きました。私は、9月の世代交代でブロック長になりました。自分にプレッシャーをかけていました。周りの目も気にするようになっていました。自分のやっていることは、本当に正しいのか自問自答していました。2年生も終わりに近づいてきたとき、2年生と飛鳥さんでミーティングがありました。その時に飛鳥さんが「お前たちの課題って何だと思う」と質問されました。その質問に大体の人が「本音を言わない」と言いました。自分だけが思い悩んでいたと勝手に思い込んでいた私は、背中にあった重圧がなくなりました。私は、思っていることを言って関係が壊れることを怖がっていたのです。そんな薄っぺらいような仲じゃないはずなのに。私は、この一年で本音を言う大切さを学びました。これからの大望館をもっとよくするために多くの人とコミュニケーションをとっていきたいです。
「心の世界を広げたい」 H.H(光風館1年 富山県)
一年前、私はひとりで何でも楽しくやることが出来ました。多少なら、周りとも楽しく過ごせましたし、私が自分自身を嫌いだと思うことはほとんどありませんでした。でも、私は心の奥のどこかでゲームのキャラクターを操作するように、自分の身体を動かしている感じがしていました。
私は神様が好きです。神様を信じたことによって世界が変わったような感じがして、神様がそばにいてくれているおかげで「さみしい」「悲しい」と思うことがほとんど無くなりました。それについては、今も昔も良いと思っています。ですが、私は神様以外に心から興味を示すことがなく、ほかの人と話す時に友達ではなく「友達風の付き合い」になってしまったような感じがしました。
私はそんな自分の心の世界を広げたかったので、敬和学園に来ました。中学時代はずっと家でダラダラと過ごしていたということもあったので、寮に入ってから、ちゃんと学校に行ってまともに生きてきたみんなが偉人のように見えました。でも、しばらくして彼らも自分と同じように傷付く人だということを感じました。
この寮で生活する中で、いろんな人がバカなことをして先生に怒られたり、いきなり叫び出したりするところを何度も見ました。それを見て私は、その彼らのことをバカだと思いました。それと同時に、その日、その時を生きて、真っ直ぐで格好良く輝いて見えました。なぜ、彼らが輝いていたのか、わからなかった私はそのことについても考えました。その答えは「深く考え過ぎている」ということなのだと思いました。
今までの私は、頭の中で考えすぎて行動に移すことが出来ないことが多かったので、それからは、自分が感じた事を素直に行動に移すことも大事なんだと思いました。私は今、前よりも嫌いなことは増えましたが、前よりも楽しく過ごせています。そのことで友達と面と向かって話したり、遊んだりすることも増えました。
最後に、入学して早一年が経ち、もうすぐで私にも後輩が出来ます。彼らの中に迷っている人がいたら、私が救われたように支えてあげてみたいものです。
教師からの一言 寮務教師 森口 みち子
2018年2月28日、48回生が寮修了を迎えました。のぞみ寮生活には入寮時から3年という期限が限られています。それぞれの夢や希望に向かって歩み出す喜びの時には違いないのですが、この日を境に、毎日当たり前のように言葉を交わし、、笑い合っていた48回生の顔が見れなくなったことを思うと、なんだかキュッと胸が締め付けらます。48回生達が素晴らしい、豊かな人生を歩みますようにと祈らずにはいられません。
今、のぞみ寮では49回生・50回生と共に51回生を迎える準備を着々と進めています。一体どんな仲間との出会いが与えられるのだろうか?ドキドキ・ワクワクしています。
48回生が後輩を大事にしてくれたから、51回生をもっと大事にしよう。先輩が安心させてくれたから、51回生が安心して暮らせるように守っていこう。こうやって次の世代へと、潤いを増しながらのぞみ寮・のぞみ寮生は歩んでいくのだと実感中です。