2021年3月23日火曜日

のぞみ通信 2021年3月18日 第261号

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(題字 めぐみ館2年 S.Aさん)

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2020年度 最後の登校日の様子 (2021年3月17日)

 

 

「すべては愛するということでした」 寮務教師 森口 みち子

 2008年の秋、私は初めて敬和の土を踏みました。のぞみ寮見学に興味本位でやってきた私の目の前には私の「高校」という概念を大幅に超えた学校と子どもたちがいました。ピカッと光る笑顔を向け、人懐っこく興味深げに私に声を掛けてくる子どもたち。こんなに構えることなく、人に向かえる高校生が、それも集団でいるのかと驚いたのが第一印象でした。その夜、当時のみぎわ館の夕礼拝に参加させてもらい、子どもたちが懸命に生き、仲間を求め・想う語りに涙が出ました。ここで働きたいと願い、叶えられ今があります。

 館運営を任せてもらえるようになり、最初に着手したのは事務室改造です。ソファをたくさん入れ、みんなが集える場所にしました。少しでも関わり互いを知る機会を増やしたかったからです。次に当時多かった遅刻・欠席をなくす方法を考えました。しかし体調よりも気持ちで休む人が多いことに気づき、たくましく生きられるためにはどうしたら良いか考えるようになりました。労作をお願いした時「嫌だ」と言われました。「私がやるよ」と気持ちよく言えるようになるためにどうしたら良いか考えるようになりました。自分探しとは何か、幸せに生きるためには、今を大切にするとは……子どもたちと共に過ごす毎日で挙げきれないほどたくさんのことを共に考える機会を与えられました。そしてその答えは全て「愛する」事でした。それを私に教えてくれたのはまぎれもなくのぞみ寮生たちです。愛されていることに気づくことがいかに心強く生きていけるか。人を愛せる自分と出会うことがどれほど幸せなことか。人が豊かに生きるために大切なことをのぞみ寮生がこれまでずっと私に教え続けてくれました。

 今年度もそうです。災いに満ちた年のように感じたスタートでしたが、私の目の前にはいつも互いを大切にしあう姿がありました。今はコロナ禍にあっても、恵みに満ちた年だったと思わされています。

 私はいつも子どもたちから学び教えられ導かれて歩んできました。寮務教師だった私ですが、子どもたちこそ私の師でした。この12年、愛おしいたくさんの子どもたちと出会い、共に過ごしてこれたことを心から感謝いたします。のぞみ寮は私にとって恵み溢れる場所でした。ここを離れてもいつもお祈りしています。12年間、ありがとうございました。

 

 

寮生リレー

「それぞれの文化」 光風館1年 U.S(東京都)

 皆さんは、「文化」について深く考えたことはあるでしょうか。文化の日、文化祭などで使われるこの文化は、辞書で調べてみると「人間が自然に手を加えて形成してきた物心、両面の成果」とあります。しかし、文化といっても、日本と他国の文化は少し違っています。そこで今回は、その日本と他国の文化の違いに注目して話したいと思います。

 例えば、「米」という言葉があり、これに関連する言葉を考えてみます。おにぎり、稲、田んぼなどたくさんあります。しかし、これらの文字ひとつひとつに共通点はあるでしょうか。どの単語にも同じ文字は入ってきません。では、牛という言葉はどうでしょうか。これに関連する言葉は、牛肉、雌牛、雄牛、畜牛など色々あります。これら全てに「牛」という文字が入っています。このようにおにぎりや稲、田んぼにも「米」という同じ漢字を入れてもいいのではないかと思ってしまいます。

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 なぜ「米」には同じ漢字が入っていないのでしょうか。その答えはその国の歴史の中で、どのような関わりがあったのかを示しています。米は日本にとっての主食です。寮のご飯にも三食ほぼ米が出てきます。それほど米の存在は日本にとって重要なのです。では逆に他国の言葉も考えてみます。「牛」は英語で「bull」です。牛肉は「beef」、雄牛は「ox」雌牛は「cow」で、畜牛は「cattle」です。これらの言葉はひとつひとつ共通点はなく、同じ単語も入ってきません。

 同じように「米」は英語で「rice」です。おにぎりは「rice ball」、稲は「rice」田んぼは「richfield」です。アメリカでも日本と同じように「牛」ほど重要な作物ではないので割と大まかに決めているところがあるのです。「牛」はアメリカにとって大事にされているものなのでひとつひとつ異なる単語が使われているということです。アメリカはアメリカで、日本は日本で大切にしてきている物があり、それを文化と呼ぶのだと思います。そして、アメリカと日本が大切にしているものはそれぞれ違いそれも文化の違いなのだと思っています。

 のぞみ寮にいる人達も同じです。みんなそれぞれ違う思い、感情を持っています。そのひとつ一つの個性を大事にして光風館の文化を作っていけたらなと思います。

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「自分の変化」 みぎわ館1年 I.F(愛知県)

 敬和は元々母の母校で、地元で行きたい高校がなく、母が勧めてくれたことがきっかけで入学を決めました。その後のことは正直覚えていません。入寮して始めの頃はホームシックで何をしても、どこにいても、何を食べても、家を思い出してしまう……そんなことばかりでした。そうやって家のこと、過去の思い出にすがっていた私を最初に変えたのは、今まで近くにあったものの存在でした。離れたことで家族のこと、友人のこと、今まで経験したことが全て愛おしくて、こんなに支えられていたんだと気づくことが出来ました。そして今まで好きだったものが、ホームシックの間支えてくれたおかげで、2倍も3倍も好きになりました。『好きなものがあるってことは、自分のこともちゃんと好きなんだよ』と昔父が言っていたことを思い出しました。

 気づけば、大嫌いだった自分のことを少しずつ好きになっていく自分がいます。自分の良いところを見つけられるようになるのと同時に、自分の欠けていることころがはっきりと見えるようになってきました。これが今の「最大の変化」です。今まで自分をちゃんと理解していなかったように思います。

 聖書の言葉は私にとって名言みたいなもので、聖書の言葉とみぎわ館のみんなのおかげで自分の課題がはっきりと見えて、直そうとすることで、自分の体から黒いものが少しずつ抜けていっています。コロナ世代と呼ばれ、いろいろと制限のある今ですが、4月からの1年、のぞみ寮でもっと成長を感じながら生活をしていきたいです。

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「新たな目標」 大望館2年 H.J(岡山県)

 私は最初、寮というものに苦手意識がありました。24時間誰かと共に生活しないといけなく、携帯電話は禁止で、電話するには公衆電話を使わないといけない。当時、私にとって考えられないものばかりでした。そんな私が寮で1年間を通して、感じたことを記したいと思います。

 まず、私が感じたことは寮に入る前よりも健康的で充実した生活が送れているということです。以前の私は携帯電話を夜遅くまでいじっているせいで朝起きられなくて、遅刻したり欠席したり高校生としてありえない生活を送っていました。ですが、寮に入って私の睡眠を妨げるものがなくなり、起床時間と就寝時間が決まっているおかげで、以前のようなことがなくなりました。

 次に、私が感じたことは人間関係の難しさです。私は人との距離感を測ることが苦手で、あまり人との関わりが出来ていませんでした。どうしても「人にどう思われているのか。迷惑ではないか」などと考えてしまい、人に話しかけることを戸惑ってしまいます。なので、寮にも現段階で仲が良いと言える人があまりいません。同級生にも「もっと人と関わってほしい」と言われたので、これを今後の課題としたいです。

 最後に、残りの寮生活は交友関係を広めることを目標にして、志望校合格を目指して頑張りたいと思います。

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「縛られて生きるのはもうやめます」 めぐみ館2年 A.Y(群馬県)

 今回は、私が敬和で生活する中で変化した考え方をお話しします。

 私はずっと、人にどう思われるかが怖くて怯えながら生きていたと思います。でもある時、嫌われることを考えながら生きることに心底疲れてしまいました。そして、話さなければ、関わらなければ、外身の自分は嫌われるかもしれない。けど、「中身の自分は、絶対に嫌われることがない」ということに気づいてしまいました。好きか嫌いか以前に、何も知らないからです。それを見つけて「これで誰にも私を否定されることはない」と思いました。私にとってそれは、人生を保留にしているつもりだったのです。そうやって過ごすのは、勇気の欠片も使わなくていいので確かに楽でした。でも、毎日が私の存在価値のなさを突きつけてくるような日々でした。

 その時やっと自分の本当の願いは、人の目を気にせず自由に生きることだと気がつきました。そのためには、自信が必要だと思いました。自信については、前からたくさん考えていました。でも私には、何もできない私が、自分に自信を持つということが傲慢に思えてしまって、ずっと受け入れられませんでした。

 そこでもう一度どうしたらいいか一から考え直しました。何日も考えた結果「まずは自分の存在を認めてあげることからはじめよう」と思いました。自分自身に「生きてていいし、ここにいていいんだよ」と常に思ってあげることで人の目が前より気にならなくなります。私は、客観的に見られることこそが良い見方だし、大人だし、という世間の風潮を感じて客観的に見られるようにしよう、と努力していました。だから多分いろんな人の目を借りて、心を想像して自分の価値を決めていたんだと思います。時には、客観視できることも大事なことです。でも、自分の人生なのに他人の価値観で縛られて生きるのはもうやめます。

 私の今年の目標は、自他共に「こうあらねばならない」をなくして、人を傷つけない程度にもっと自由に生きることです。

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<教師からの一言>  男子寮 澤野 恩

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 17年……あっという間でした。約20年ほど前でしょうか?敬和学園高等学校を初めて知ったとき、全寮制の学校で教師も学校の寮の中に一緒に住んでいるんだという、間違った情報を耳にしたとき、寮で生徒と一緒に住みながら働くなんて、絶対に無理だと思ったんです。しかし、前任校をやめて教育の現場にもう一度戻りたいと、心から思ったとき、前の校長の小西先生に「寮の先生なんてどうですか?」と問われたとき、あんなに無理だと思っていた仕事のど真ん中の仕事ですが、教育の現場に戻れるならばと、断る余裕などなかったのです。

 しかし、もともと教科教育をしたいと思って体育教師になったわけでない私は、部活やホームルームなど、教科ではなく、高校生と人と人として直にふれあう仕事がしたくて教師になりたいと思ったのです。寮の仕事を知れば知るほど、その魅力のとりこになりました。

 何よりもそこには私の師と仰ぐことのできる、あこがれの教師像が目の前に存在しました。こんな先生になりたい……。何度も学校の教師に異動する機会はあったのですが、その先生から学ぶことがまだまだあった私は、寮務教師であることを心から願うようになりましたし、何よりもこの仕事が大好きでした。この仕事の大好きさは誰にも負けない自信があります。しかしながら、私の師と仰ぐ先生も引退しました。恩師から学ぶ事はすべて学んだと思います。いっぱい一緒に笑って、君たち寮生のことで、真剣になっていっぱいケンカした、食べることしか頭にない相棒も、ここを去ります。

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 大好きな寮の仕事で心の底からやりたかった担任もさせてもらえました。担任になると、こんなにも自分の館の子供達が愛おしくなるものかと、その気持ちもいっぱい味わうことができました。光風生だけでなく寮生の存在は私にとって特別で、私が心からリスペクトできる存在です。寮生は私にとって何よりの先生で、17年間本当に多くのことを学ばせてもらうことができました。ここでは、大好きな仕事を楽しくできて、私の大好きな子供達がいっぱいいて、大事な仕事仲間もここにいます。私の心から望んでいるものがすべてここにあるのです。そうなってしまうとダメなのかもしれません。潮時なのかもしれない。

 さて、今回の聖書の箇所です。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」「敬神愛人」はこれを四文字熟語にしたものです。これは、敬和学園の最も大事にしている教育理念です。建学の精神とも言います。クリスチャンでない人たちに「あなたの神である主を愛しなさい」と言われてもぴんとこないかもしれません。神様は万物の創造主です。私たちは神様の創造から作られました。その神を愛しなさいということは、今、ここにいる自分を愛しなさい。今ここにいることに感謝しなさいということだと私は思っています。地位や名誉や財産ではなく、私たちがここにいるそのことに感謝しなさいと教えられているのです。10年前、東日本大震災、津波、原発事故。大事な大事な多くの命が失われた中で、日本中が当たり前の日常に心から感謝をしていました。このコロナ渦の中で、その大事なことを忘れてはいないでしょうか?確かに不自由を強いられる日常ですが、そんな中でも、生きている自分がいることに感謝することが、「あなたの神である主を愛する」ことなんです。

 「隣人を自分のように愛する」自分のように愛するんです。自分を愛さなければならないんです。神様を心から愛したとき、自分の存在を感謝できたとき、自分を愛することは当たり前になるはずです。自己肯定感の低さは現代を生きる人の大きな課題です。なぜ、自己肯定感が低いのか?他と自分を比べるからです。自分は自分。ここに存在していること自体がすごいことなんです。この世の中に不必要な存在などあるわけないんですよ。他と比べず、今の自分を愛してください。

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 隣人を愛しなさい。隣人から愛されなさい。とは書かれていないんです。愛しなさい。なんです。冒頭の言葉に戻ります。「先生それなら知っています。初めて会った日にあなたは泣きながら私のことを抱きしめてくれました」これは、福祉の女神といわれている誰もが知っているヘレン・アダムス・ケラー(ヘレンケラー)が家庭教師のアン・サリバンが「愛」という言葉を教えようとしたときに、ヘレンが言った言葉だそうです。ヘレン・ケラーは重度の視覚障害と聴覚障害を生まれつき煩っていました。君たちとそう年も変わらなかった若い家庭教師アン・サリバンは言葉を教えるとき、ヘレンの指を自分の口の中に入れて、舌を触らせたりして言葉を教えたそうです。若いが故に責任感が強く、ものすごく厳しい家庭教師だったアンがヘレンに「愛」という言葉を教えたとき、もうすでに知っていると答えたのです。それは、誰よりも、ヘレンを初めて会ったその瞬間から愛したからだと思います。

 誰からも愛される存在でありたい。もしかしたら誰もが持っている当たり前の欲求かもしれません。でも聖書はそう教えていないんです。隣人を愛しなさいと教えているんです。難しいですけど、誰にでもできることですよね。人に愛されるではなく、まずは愛する人になりましょう。

 さて、私は17年間でどれだけ愛することができたでしょうか?来年度からのぞみ寮を離れて学校の教師になる私にとって、これはものすごく大事なテーマなんです。君たちをどれだけ愛することができるか?これが最も大事なことだと教えてくれたのも、のぞみ寮であり、そこで寮生活を営んでいる君たちです。来年度からは、君たち寮生だけでなく、敬和生みんなを心から愛する教師として務める。そして、アン・サリバンのように、「愛」などと軽々しく口にしなくとも、その思いが君たちに伝わる教師を目指すことを、約束したいと思います。

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