2012年5月25日金曜日

のぞみ通信 No.180(5月21日)

< マイナスをプラスに >

寮長 信田 智

 敬和に在職して34年間聖書の授業に携わってきた。宗教主任をしていた25年間、1学年160人・4クラス体制の時代は3年間全校生徒が、また1学年200人・5クラス体制になっても、1年生と3年生は全て、私の聖書の授業を受けることになっていた。寮長になってからは、2年生と3年生合わせて5クラスを担当していた。
 そして、今年度からは寮・校舎・体育館の耐震工事の準備に関わる事になり聖書の授業を持たなくなった。敬和における私の最後の授業は、3月6日6限白馬クラスのひとコマだけであった。この日は前々から、特別な思いを持って迎えるべく、最終講義と心の準備をしてきた。ところが当日になって、なぜか授業の事をすっかり忘れ、3時に業者と会う約束を入れてしまった。
 3時少し前、教務室から電話があり授業の事を知らされた。慌ててクラスに駆け込んで、お詫びをしながら、残り15分間ほどの授業を始めたとたん、今度は携帯電話が鳴り出してしまった。約束の業者からの連絡であった。敬和における記念すべき最後の授業が、最も無残な形で終わる事になった。 生徒達は、「先生これも記念すべき授業ですよ。」と声をかけてくれた。
 数日後、その事を聞いた白馬クラス担任の浅妻先生が、私に思いもかけない話をされた。「クラスの生徒にも諮り了解を得たので、終業日のロングホームルームの30分間、最後のやり残した授業をしませんか」と言う事でした。躊躇をしながらも、その申し出を有難く受けさせてもらい、最終講義を完結させることが出来、安堵と感謝の思いで一杯になった。
 そこで更に驚くべき事が起きた。クラスの生徒から感謝の言葉と共に、寄せ書きの色紙と大きな花束を頂いた。失敗を犯し、その恥を負い続けなければならない教師に、かくも温かい配慮をしてくれた事に対し、どのように感謝の気持ちを表わしたら良いのか、言葉も出ないほど嬉しかった。浅妻先生の計らいで、最後の授業で大失態を演じてしまった締め括りが、そのままスムーズに最終講義を終わった事より、はるかに大きな感動を持って締め括る事を許され、感謝に溢れた。
 振り返ってみると、普通に考えれば、どう見てもマイナスとしか思えない出来事の中に、その経験を通してしか知ることの出来ない、大きな恵が隠されていた事がしばしばあった。自分の失敗を正当化したり、ごまかす事をしてはならない。しかし、救いの道が備えられていることも事実である。失敗やマイナスのない人生はない。ならば、マイナスをプラスに変える経験を増やしたい。

 「神を愛する者たち、つまり、ご計画によって召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」  (ローマ8:28)





『東日本大震災で感じた事』 ~寮祭礼拝でのお話より~

S.U(2年 福島県会津若松市出身)
 皆さんこんばんは。こうして皆さんの前でお話しさせていただけることに感謝します。
 今日は昨年の東日本大震災を通して私が経験したこと、そのとき感じた感謝についてお話ししたいと思います。
 2011年3月11日。中学校の卒業式でした。午後、友人達と校舎前で別れ、母と二人で自宅へ戻り、ゆっくり昼食を食べていました。そして、午後2時半過ぎに母は仕事へ出かけました。中学校3年間の思い出にひたりつつ、嬉しいような寂しいような不思議な気持ちで、机の上の卒業証書を取ってこようと立ち上がったその時に、何かがおかしいと感じました。揺れが大きいことに気がついた私は、とっさに猫を抱えて食卓の下に潜り込みました。いつものようにすぐ収まるだろうと考えていましたが、揺れはどんどん大きくなり、テレビの上の物がバラバラと落ちました。食器棚の上の小さなかき氷機も落ちました。やっと小さくなったかと思うと、またすぐに一際大きな揺れがきました。家のどこかからバキッと大きな音が聞こえ、私は一人だったこともあり、焦る気持ちが抑えきれず叫んでいました。すると祖母が階段を下りてきて、とにかく外に行こうと言ってくれたので、もがく猫を必死に抱えたまま外に出ました。頭上の電線は大縄のように揺れていて、これはただ事ではないと感じました。
 数分おきに大きな揺れが来て、どこかから大きな音が響いて、どうしようもなく玄関でたたずんでいました。すると先ほど出かけた母が引き返して帰ってくれたので、とりあえず家の中へ入りました。テレビをつけてみると、どの局も地震のことばかりで、私の地元は震度6弱でした。大袈裟かも知れませんが、結構な揺れで死ぬかと思いました。今になって、私なんかよりもっと怖い思いをした人が大勢いたんだと思うと、ものすごく恥ずかしい気持ちになります。
 夜のニュースでテレビからよく知っている場所が報じられて、私は「これは人ごとじゃない、自分の周りで起こっていることなんだ」と実感しました。同時に津波の映像や崩れた家が映し出されたり、どこかの浜に200~300人の遺体が流れ着いたと報道され、ゾッとしました。本当にこの世に起きていることなんだろうか、現実なのかと疑いたくなるほどでした。
 震災の翌日の12日は、中学のクラスメイトと私の家で遊ぶ予定でした。地震の後でみんなはソワソワしていたのですが、持ち寄ったお菓子など食べながら、いろんな事を話しできて、ホッと出来ました。2階で母はテレビを見ていました。福島原発が大きく映っていて、テロップで「福島原発放射能漏れの恐れあり」と映し出されていました。母は「なるべく家の中で遊んでいなさい」と言いました。夕方、みんなで写真を撮り、なごり惜しそうに別れ、みんなは帰っていきました。それから母の所へ行ってみると、「爆発しちゃった…」と母が茫然とテレビを見つめていました。それから私は1日中マスクをして過ごしました。
 私は放射能について幼いころから、教会や様々な活動、活動に携わる多くの人達に囲まれて、原発の危険性や放射能について学ぶ環境で育ちました。祖母に誘われて、チェルノブイリ原発事故の写真展を手伝いに行ったり、その事故後に何があったのかを描いたマンガを小学生の頃から読んだりしていたので、原発が絶対安全ではないこと、放射能の危険性について少しは知識がありました。テレビから流される原発の様子を見たときは、すごく悔しかったです。祖父母も母も、叔父や叔母も、みんなは原発に反対してきたからです。
 翌日13日に、叔父さんと叔母さんが家を訪ねてきて、私と弟だけでも三重県に避難しないかと話されました。家族4人で話し合いました。父と母は、「子供たちだけでも早く会津から避難してほしい」と言いました。しかし、小6の弟は、卒業式を間近に控え、なかなか首を縦に振ってくれませんでした。私は家族全員で避難したかったのですが、今の状況を考え、私一人先に避難しました。結局、弟は叔母に連れられて、私が到着した翌日には三重県に避難して来ました。
 避難先で私たちを受け入れてくれた叔父さんの、ポロっと口にした話が印象深く心に残っています。叔父さんの会社と他の幾つかの会社でイベントを企画していたのですが、この震災を覚えて今回のイベントは中止にしようと1つの会社が言いだしたそうです。叔父さんは「それは違うと思うんだけどなぁ…。こんな時だからこそ、やるべきだと思うんだけどね。」と呟いたのです。このとき私はその通りだと思いました。しかし、大変な状況にある人達が大勢いるのに、イベントをしていいのだろうか、その人たちの事を考えたらのん気にやってる場合じゃない、と考えることも間違いでないと思います。ただ私は感覚的に、「困っている人がいるから自分たちも楽しまない」というのは違うように感じました。でも私の中には、せっかくイベントを行える環境にいるのだから、素直に感謝してやればいいのにと思う自分と、なぜか強く言えない、ハッキリと答えられない自分がいました。この1年間ときどきそんな事を考えていました。
 先日、その答えらしきものを現代文の授業で見つけました。「情けは人のためならず」人にした情けは自分に返ってくるとか、人にした親切は巡りめぐってだれかに届くという意味らしいのです。私はそのときピンときました。何か似ていると思いませんか?イベントができる、楽しむことができる環境にあるという幸せは、巡りめぐって震災で大変な思いをしている誰かに届くと思いました。その誰かの笑顔が別の誰かに届けば、みんなはHappyになれるはずです。「情けは人のためならず」幸せが巡りめぐって自分の所に返ってくるまでに、一体どれだけの人が笑顔になっているのでしょう。そう考えてみると、ちょっと嬉しくなりました。だから、私は大変な人たちがいるから自分も楽しまないではなく、むしろみんなで楽しむことができる環境にあることに感謝して行うべきだと思うのです。
 自分の経験からもう1つ、みなさんにお伝えしたいことがあります。「知っている」という事についてです。本当にいざというときに、自分の身を守るのはそれまでの知識です。今回の場合、私は本当に恵まれていました。原発や放射能に関する知識は、幼い頃から周りの大人が教えてくれていたからです。 知っていること、学べる環境にあることはとっても幸せなことなんです。勉強だって大事なことだけど、それ以外にも大事なことがたくさんあります。いろんなことに興味を持ってください。今回は、原発という形でしたが、きっと知って損することなんて1つもないハズです。それがもし、自分のこれからを左右するときが来るとしたら…。何かを学べる機会があれば積極的に手を伸ばして、自分の中に取り入れて下さい。そして、その機会が与えられたことに感謝できる人でありたいと私は思います。





  寮生リレー通信  (第 96 回)


【 みぎわ館 】
『寮祭での出来事』  N.M(2年 福島県会津若松市)
 桜も散りはじめた4月の末、寮祭という寮の行事が行われました。寮祭のお楽しみ会で1年生が出し物をするのですが、私はダンスを考え、その振付を教える担当でした。
 春休み中に劇とダンスの雰囲気が合うように曲を選び、一分間ほどの振付をダンス係の友人と二人で考えました。とは言っても、私は埼玉県、友人は新潟県と離れているために、打合せは電話だけのやり取りでした。私たちは完成度の高いものにしたかったので、難しすぎず、簡単すぎないものを作るように努力しました。姉や母にも協力してもらって、ついにダンスが完成しました。
 春休み明けの4月3日、初めてとなる後輩が入寮してきました。緊張とワクワクで胸がいっぱいになったことを覚えています。そんな中で寮祭の練習が始まりました。劇の練習もあったので、ダンスの練習は約一週間前から行うことになりました。はじめは一週間という時間の短さで、この振付で本当に大丈夫なのかと心配になりました。しかし、周りの仲間が協力してくれたおかげで、不安がなくなり、「楽しいと思うような練習にする!!」という目標までできました。
 最初は緊張で固まっていた1年生の顔が、だんだん笑顔になっていきました。練習を積み重ねる中でダンス、劇ともに上達していき、発表の順番が一番だったにもかかわらず、無事に寮祭でみぎわ館の出し物は成功しました。  
 寮祭を終えて周りの人の協力、不安にも関わらず、練習についてきてくれた1年生への感謝の気持ちでいっぱいです。これから私は、部活、寮、学校で「先輩」としての責任と、いつも助け支えてくれる仲間への感謝の気持ちを忘れずに生活していきたいと思います。



【 大望館 】
  『寮で1ヶ月過ごしてみて』  H.S(1年生 福島県南会津郡)
 僕は1ヶ月半前、いろんな不安を抱きながらのぞみ寮へ来ました。僕の不安とは、敬和の合格が決まるまで洗濯なんかしたこともなかったし、ネクタイも結んだことがなかったことでした。入寮礼拝が終わった後に、大望館の1年生で集まった時、S君が話しかけてくれたことがとても嬉しく、緊張がほぐれました。ゲームは出来ないし、ケータイもダメな寮生活は、何をしていいのかと思いました。しかし、今ではいつでも話せる友だちがいるので、毎日が修学旅行のような気分で楽しく過ごしています。
 次に寮祭の感想を書きたいと思います。大望館の出し物で自分の特技を披露しなければならず、僕はトランプのマジックをやりました。ミスをする可能性が高く、緊張しながらステージに立ちました。本当にミスをするのが怖かったので、「ミスをしたらすいません」と言ってから出ましたが、成功することが出来て良かったです。大望館の他の人たちも、色んな特技を見せてくれて、僕は凄いなと感じました。その他に大望館はダンスを踊ったのですが、センターだったので恥かしかったです。
 他の館の出し物は、光風館が一番おもしろかったです。光風館は、色んな芸人のものまねをしていて面白かったです。めぐみ館とみぎわ館は、男子寮と全然ちがう劇だったので、また違う面白さがあって楽しかったです。これからも寮生活で楽しみを探しながら、僕は過ごしていきたいと思いました。




【 めぐみ館 】
  『GWを寮で過ごして』 K.T(3年 福井県小浜市)
 今年のGWは本当に毎日が充実した日々でした。毎日バスケの練習があり、部活三昧に追われ、寮でのイベントではBBQや映画鑑賞会があったりして楽しい毎日を送れました。部活では大会に向けての練習が厳しく、体の全体は、筋肉痛になるまでハードな練習が多く、まるで合宿をしているような感じだったけど、部活に集中することが出来ました。また、心と体を癒してくれるような寮でのイベントは多く、本当にゆっくり過ごせました。寮で残っている人でしか味わえないイベントの楽しみもあり、寮に残っているという感覚が無くなり、家に居る気分になれました。  寮で過ごしたGWは、毎日が楽しめる日々でいっぱいで「寮に残っていてよかった」と言う気持ちにさせられました。アッと言う間のGWだったけれど、私にとって今年のGWは最高に楽しめました。寮で過ごす事の出来るGWは今年が最後、今までで一番楽しむことが出来、充実した日々を過ごす事が出来ました。




【 光風館 】
『寮祭~責任者の苦労~』  K.K(2年生 新潟県村上市)
 事の発端は、四月上旬に行われた二年生ミーティングである。ミーティングの話は注意事項から数週間後に迫った寮祭の話になった。その内容は光風館の出し物の責任者を決めるというものだった。私は数秒躊躇したが、劇の方で私自身の経験を生かせたらいいなと思い、初めて責任のある役目を負う決心をした。
 私は主に脚本を担当したが、すぐに壁に当たってしまった。それは、一年生の人数が多くて配役が大変ということだった。この問題は仲間の協力もあり、無事解決したが、肝心の台本は、寮祭まであと一週間というところで試行錯誤の末ようやく完成した。一年生には一週間でセリフを覚えてもらわねばならなくなり、大変な迷惑をかけてしまったのは今でも申し訳なく思っている。
 しかし、一年生は日ごとにクオリティを高めていき、リハーサルでは大きな失敗も無く、それどころか「四館のうちで一番おもしろい!」と言っていただき、私は初めて自分のやったことが報われたと思い、目頭が熱くなった。そして、劇を作り上げた仲間たちと笑顔で握手を交わした。
 寮祭当日の本番は、笑いが絶えないほど最初から最後まで一年生の演技が面白く、私は一年生はもちろん、観客のみなさんにも今回の寮祭のテーマだった「ありがとう」という感謝の言葉と、ものすごい達成感の両方を感じながら笑顔で光風館の出し物を見ていた。
 色々な苦労があったが、劇を作り上げた二年生の仲間、そして一年生が協力してくれたおかげで、最高の出し物となって本当によかったと思う。心から「ありがとう」と言いたい。



< 編集後記 >
 GWが終わり、第一定期テストも終わると放課後のキャンパス内は、フェスティヴァル活動一色になりました。その活動の中心に立って指導している3年生を見てみると、寮生がほとんどのリーダーを担っています。寮祭での出し物を作り上げた経験が、フェスティヴァルでも活かされているようです。
 日頃当たりまであると思ってしまうことや、やってもらって当然という感覚になりがちな私たちではありますが、昨年の震災からの学びを通して、日々の生活を過ごせることに感謝しようという事から、今年の寮祭は「感謝」というテーマで行いました。
 寮生活を過ごすために、どれだけ多くの人達に支えられているのか、また、私たちができる事は、何なのかを考えてもらいました。その中からお世話になっている方々に寮祭へ参加していただきたいという事で、「感謝の招待状」を送りました。招待状を受け取った職員の方からは、喜びの声を頂くこともできました。
 感謝の気持ちを表すことだけではなく、謙虚さも合わせて指導していきたいと私は思いました。
のぞみ寮主任 帆刈 仰也