2015年10月9日金曜日

光風館通信 第459号(10月7日)

< 関東・東北豪雨 被災支援労作  >

 9月18日(金)〜20日(日)に行われた、関東・東北豪雨 被災支援労作についてお伝えします。今回は、去年卒業したI.T君の実家である日本基督教団竜ヶ崎教会を拠点としました。また、水害で被災した日本基督教団水海道教会は、光風館卒業生の実家です。

 今回、生徒9名のうち光風生3名が参加しました。それぞれが感じたことを記載していますので、しっかり読んで想いを共有してください。そして、光風生ひとり一人が想いを語り合い、また次に繋げてほしいと願います。(片岡)

 

O.S(2年)兵庫県神戸市出身

 私が参加した理由は、被災された方を助け、被災された方に寄り添いたかったからです。水海道教会に着いた時、最初に目に入ったのが泥がついた生垣でした。自分の身長よりちょっと下まで泥がついていました。改めて自然の恐ろしさや水害の恐さを知りました。

 水海道教会での労作は、椅子や机を運び出し、泥を雑巾でぬぐうというものでした。その作業中に「これでいいのか?」という不安が私の中にありました。でも労作終了時に、たくさんの人から「ありがとう。とても助かったよ。」と言われた時、私の中にあった不安が吹き飛び、みなさんの笑顔を見て、嬉しかったことを今でも覚えています。

 また、私はもう一つ強い衝撃を覚えています。それは「片付けは、早くやらなくていい。むしろスローワークを大切に。」という牧師の一言です。私は「早くやればやるほど復興が早くなるからいいんじゃないか」と思っていました。しかし、それでは地域が復興しても、被災された方の心は傷付いたままなのです。だから、ゆっくり被災された方に寄り添い、地域も、そして心も修復されていくんだと学びました。私は今回、参加して良かったと心から思っています。

 

S.H(3年)福島県郡山市出身

 僕は何度かボランティア活動に参加したことがありますが、今回のような水害の被災地でのボランティア活動は初めてでした。僕の水害のイメージは家中が水浸しになって、泥がついて……と、この程度のものでした。水海道教会に着いた時、まず目についたのは泥でした。自分の胸くらいの高さまで泥があったことに驚きました。そして、そこまで水があったらと想像すると少し恐くなりました。

1007_ko02 ボランティア活動は礼拝堂の中にある備品を運ぶなど、主に力仕事を中心にしていました。中にあったものはどれも泥がたくさんついたままで、椅子や机は泥をふき取るのが大変そうでした。実際、ある人が「拭き終わった」と思っても椅子には、角や隙間の細かいところには泥が残ったままでした。午後からは日差しが強くなり体調を崩す人も出てきて、この時期に災害に遭った地域は、その後がすごく大変なのだと感じました。
 僕は東日本大震災の時に福島県の中学校にいました。でも、その日のうちに新潟の祖父母宅へ行き、現地が落ち着くまで1〜2ヶ月程いました。なので、被災した後の苦労や大変さを全く知りませんでした。今回、こうして被災地に来て支援労作をさせてもらって被災した後の大変さを知り、当時経験しなかった想いを感じることが出来ました。
 水海道教会には多くのボランティア参加者がいて、その中にSさんという方がいました。Sさんとは高校1年時に参加した十日町の雪堀りのボランティアで初めてお会いしました。それ以降も十日町でのボランティアで会っていました。今回のボランティア活動にも来て、また一緒に活動することが出来て良かったと思いました。ほかにも、僕が福島にいた時に通っていた教会の牧師にもお会いすることが出来ました。昔の繋がりや新しい出会いがあり、ボランティア活動での良い出会いを実感しました。

 

H.H(3年)岐阜県下呂市出身

 私は初めて、被災地支援労作に参加しました。今までは部活の大会などと重なり、行きたくても行けませんでした。私が参加したかった理由は、普段の生活で人のために動くということが少ないからです。人は生活している中で自己中心的で自分のことしか考えていないのでは……とふと考えることがあります。そのような生活から少し離れ、人のために動くことはとても大切なことだと思ったからです。しかし、苦しんでいる人に寄り添うこと、これはとても難しいことです。私は「その苦しんでいる人とどうやって関わればいいのか」と、参加する前に悩みました。

1007_ko03 この水害を知ったのは、テレビのニュースでした。最初見た時は、何故か他人事のようで被災地と私の間には、「画面」という大きな壁があるように感じました。その中、このような機会を与えていただき、感謝と共に、人一倍頑張ろうと思いました。しかし、参加を決めた後、行くのを少し迷ったりする時がありました。たくさんの欲に負けそうになり、これがどこか無関心な自分であると感じました。自分に関わらないことは忘れてしまう。これが私たちの弱さなのだと思います。
 私は被災地支援労作に参加して、キリスト教の強い繋がりを知りました。困っている人を助けるために遠い所から来ている方々に出会いました。苦しんでいる人のためにたくさんの人が支えに来る、とてもすてきな光景が私の目には映りました。
 また、この活動だけでは復興しきれない現地の被害もその場に行くことで分かりました。現地に行って、その現場を見る、人の話を聞くというのはとても大切なことだと思います。実際、私は茨城に行って現地の人の話を聞いて、初めて知ったことがありました。それは、「復興は早くやるのではなく、ゆっくりとやってほしい」という言葉です。被災された方はその場所にはたくさんの想い出や感情があるからです。汚れて使えないようにみえる物も、その人にとってはとても大切な物なのです。そして、その人の心と同じようにゆっくりと復興することが大事なのだと言っていました。自分の考えは「早く復興するために頑張らなくてはいけない」という未熟な考えでした。このように現地にいかないと分からないことはたくさんあると思います。
 曖昧な情報に流されるのではなく、しっかりと現地に行き、情報を身に付けた上で、私はこれからも水害や東日本大震災に少しずつではありますが、携わっていきたいと思います。

 

片岡 自由(2015919日夕礼拝

 私は喜怒哀楽がはっきりと顔に出ます。また、疲れもすぐに顔に出てしまいます。光風館で一緒に生活している生徒はよくわかっていると思います。それともう一つ、光風生が私のことでよくわかっていることがあります。それはよく泣くということです。

 今まで出来ない自分が情けなくて悔し涙を流すこともあったし、帰って来ない生徒が心配になって泣いたこともありました。初めて卒業生を送り出した今年三月には、卒業する生徒よりも泣いてしまいました。約10年前に送った敬和生活では人前にも関わらず、よく泣いていたことがあります。それは時に恥ずかしさを感じていたし、今も思い出しては恥ずかしさを感じずにはいられません。でも最近になってやっと気付いたことがあります。思いっきり泣けるのは、周りに自分を理解し受け入れてくれる仲間の存在を信じているからということ。その仲間を心から信頼しているからこそ、人前にも関わらず泣けるのだということです。

 先週、買い物に出掛けていたホームセンターのテレビに映った映像を見て、言葉を失いました。それはまさしく鬼怒川 堤防決壊の映像でした。高鳴る鼓動を抑え切れず、ホームセンターのテレビの前で、私は涙を必死に堪えていました。その場ですぐに“鬼怒川周辺地域”と調べて、ここ竜ヶ崎教会から離れていることに何故か安心してしまいました。その時の私は、テレビが取り上げている地域だけが被害を受けているのではなく、大雨によってその周辺に住む人や繋がりのある教会が大変な状況にあることを想像出来ませんでした。それを想像出来なかった自分を思い出すと、とても恥ずかしくなります。そして何故あの時、大雨による災害は鬼怒川だけではないとすぐ判断出来なかったのか、今でも本当に情けなくなります。そんなちっぽけな自分を知り、自分のことがイヤでイヤで仕方ありませんでした。その情けない想いの中、この支援労作への参加が与えられました。

 今日一日を振り返れば、たくさんの出会いがありました。朝食の時に自己紹介したように、今日一日で私はキリスト教の狭くて濃い世界での出会いや繋がりを改めて実感しました。去年送り出した卒業生の家を初めて訪れ、久しぶりに寝食を共にしたり、敬和の同級生や20年前からの友人家族に偶然再会したりしました。また、東日本大震災で繋がった仲間とここで出会い、共に働く時が与えられました。そして、水海道教会の幼稚園に子どもを預けている保護者の方と出会い、自分の家も大変な状況にあるのにひとり黙々と作業している姿に心打たれました。

 人は出会いによって磨かれます。それは言葉との出会いかもしれないし、人との出会いかもしれない。自分の心を動かす出会いはいつどこにあるか、わからない。今日出会ったここに生きる人の姿・存在に自分自身が勇気付けられました。そして今日の出会いによって、自分自身に与えられている生命を精一杯生きようと改めて考えさせられる時でもありました。あの時、テレビの前で涙を必死に堪えていた情けなくどうしようもない自分が、今日こうして新たな仲間と共に働き、ここ竜ヶ崎教会で共に歌っている。それは今日の聖書箇所である『涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる』が自分の心にズドンと来るのです。

 みなさんに憶えておいてほしいことがあります。それは茨城県常総市、ここ竜ヶ崎教会はもう知らない土地ではないということ。今日出会った子どもたちや仲良くなったあの人がいる、あなたにとっても大切な場所であるということです。その想いを大切に持ちながら、人に仕えて自分らしく生きてほしいと願います。

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